2010年1月16日土曜日

「鉄腕アトム」がそうであるように、「システム」は人である

手塚先生って素晴らしいなと書き終えて思った次第。。。
システム導入の検討にあたってどういうスタンスで考えるべきなのか、みたいな内容です。
長いな、相変わらず。

最初はたいした知識もなく、思わぬミスもするかもしれない
座って、見ているだけ、聞いているだけかもしれない

周りが悪者一味なら、悪いことを覚えてしまうかもしれない

しかし、一番の取り柄は、忘れろといわない限り「忘れない」こと
そして、他の人がめんどくさくてやりたくないと言う
単純で連続する作業を「文句を言わず」に、そして「間違わず」にやってくれる
100万馬力はないけれど、CPUをガンガン回して自らの極限を知らずして頑張る

時間がたつにつれ、いろんなことを知るようになり、出来るようになる
今まで数人で時間をかけてやっていたことを、一人で瞬時にやってしまう

そしていつのまにか想像を超えたパフォーマンスを出せるようになる

「鉄腕アトム」を正しく育てる自信と決意があるならば、システム導入すればいい
彼は地球を救ったが、システムは企業を救うかもしれない

現場は、会社からこう言われる
「コストを削減せよ」

それは、
 残業を減らせ
 余分な人員をピックアップしろ
 もっと生産能力を上げろ
という言葉を別に言い換えたもの
僕もトップだから、その気持ち、よく分かる

現場にも、こういう思いがある
「もっと楽したい」
僕も現場的仕事をすることもあるから、よく分かる

労使間のよくある言い分であり、両方とも正しい
利益を考えない企業はダメだし、効率化を考えない現場もダメだ

そこで、両者が同意するのは、
「システムを入れよう」
または
「システム化しよう」

「よし、じゃあそこの君、調べてくれたまえ」

いろいろ調べ、聞き、見積もりをとり、稟議書をまとめる

「やりたいことができそうなんだな、それで費用は?」

「ウン千万円です」

「費用対効果は?」

「楽になりますし、時間も短縮できそうです。」

「いや、費用対効果を聞いているんだ。どのぐらいで回収するんだ?」

ある特定の部分にしか影響を与えないソフトウェアであれば、限られた範囲で算出することはそれほど難しくないだろう

しかし、我々が相談を受けるものでいけば、それは広範囲に影響を与える
単純な自動組版システムでスタートしたものが、いつのまにか基幹システム並の扱いを受けることも少なくない

企業としては、年単位の決算で利益を出さなければいけないから、どれぐらいで償却するか、そこで利益を生み出せるかを試算する必要がある
うちみたいな小さな会社は、もとより資金繰りが命だ

ただ、うちは小さいから、やるべきときは腹をくくる
すべてはトップである僕が責任をとればいいだけだから

しかし、大きな組織は、いろんな人に与える、その責任の影響は大きい
当事者の想像以上に大きい
自分のせいで数百人単位の仲間の人生を変えてしまうかもしれない
それはみんな慎重になる

こうなってしまうと、採用、導入までの道のりは非常に長くなる
何度も何度も色んな人に説明をし、理解を促す

やがて担当者は疲れ果て、
そのうち予算申請の期限は過ぎ、
通常業務が忙しくなり、
来年に持ち越しとなる

大きくなればなるほど、そこに明確な理由付けが求められる
とにかくやっちゃえ、ということはできない世の中だ

本当にこういうことが多い
知識経験ぐらいは残るが、そこにかけられた費用を合算すると、そちらの方が問題じゃないだろうか
また、営業的に言えば「機会損失」を何度も繰り返している事になりかねない

そうなってしまう要因の根本はなんだろうかと考えてみた

それは、システムをソフトウェア、いわゆる「モノ」だと考えてしまうからではないか

「購入」した以上、その「モノ」は、購入前に約束(コミット)したことが実現することが当たり前である、という考えに基づいている

てめぇんとこみたいに小さい企業じゃねえんだよと言われても続ける

新しいシステムは「新人」であり、
 導入検討は「新しい人材獲得のための採用活動」であり、
 設計は「面接」であり、
 開発は「新しい人材を自社に適用させるための教育」であり、
 テストは「試用期間」であり、
 リリースは「正社員化」であり、
 保守は「人のケア」だ
ひっくるめて、そこにかかる費用はすべて「人に対する投資」である

新人にもいろんなタイプがあるだろう
 高卒で若く、将来に目を輝かせているような、磨けば光る人材
 大卒でしっかり勉強してきた、やる気のある人材
 転職してきた、ある程度スキル・実績を持った人材

しっかり面接して、教育しなければ、適合しない
採用したままほっといて、うまく適材適所にはまることなんてない
そしてその人のパフォーマンスがすぐに出せることなんてない

即戦力、完璧だと思った人材、変な癖を持っていて、
後になって問題になったりすることもあるかもしれない

大丈夫かなと思った人材が突然花開き、莫大な利益をもたらすかもしれない

人の採用は、投資
システムの採用も、投資

投資だから、言ってみればギャンブルと同じ
それまで培った知識と経験、勘からできるだけ高確率を狙う

ギャンブルが人任せであるのに対して違うところは、
周りの努力で変えられる可能性が高いということ
人材を上手く使うには、その人を教育し、その人と話しをし、その人を知り、お互いの信頼関係を構築する
それしかないと思う

ずっと椅子に座っていて給料がもらえるなんてことはないし、
そんなやつに給料を払いたくはない

どう使うかは周り次第

合わなければ、切るしかない
そこまでの給与返せとは言わない
面接の時の実績の話は嘘だったかもしれない
でもそれを信じてしまった会社も会社

雇って、教えて、やらせてみてからでないと分からない
雇うときは、「まぁちょっと雇ってみるか」か「よしやってみるか」というような思い切りがあると思う。それと「とにかくやっちゃえ」は同じで、保証はどこにもない。

それは企業がよく知っていること
それと同じなんだと思う

採用を促す上司が、
「こいつ、良いやつです。僕はこいつを一生懸命育てます。だからとりあえず1年間置いてやってください。どうしてもダメだったら僕をクビにしてください。」
と言ってくれたとき、
「この人について行こう」
と思う「こいつ」なら、きっとやってくれるはず

その信頼関係が築ける環境のある企業なら、人もシステムも育つ

てな感じで…

2010年1月13日水曜日

テクニカルDTPの源流

この間、組版業の大先輩にお会いして、お話を聞くことができた。

自ら書く「組版を楽にするためのプログラム」を「日曜大工と同じだから」と言い切る。

全ては「自分が楽をするため」であり、「飯を食うため」

XMLだ、eBookだ、なんていうのは、遠くの方で盛り上がっている祭りで、自分たちは、お祭りの途中でのどが渇いたという人にラムネを売る、お腹が空いたという人に焼きそばを売る、そうやって「自分が飯を食うため」に組版という仕事をしている、と。

VBで書き、UIはボタン1個。

今日来た「おねえちゃん」でもボタンを押せば、30年組版をやっている人と同じ結果が出せるという。

これこそテクニカルDTPだと思う。

2010年1月10日日曜日

DTPにもテストという概念がますます必要なんじゃないかしら

DTPってある意味、システム開発でいう「アジャイル」な方式で出来ていくものだという話をこの前していた。

ここはやっぱりこういう機能が欲しい=ここはやっぱりこういう文面にしたい

これは完成物を見て出てくる意見(欲求※要件、要求ではなく)であって、僕はそのケツを決定するもの、もしくはそれをやるかどうかは、時間(割り当て可能な時間)だと思ってるんですが、この作業の積み重ねで出来ていくものとすれば、同じような感覚が必要だと考えられます。

反して、ウォーターフォールな方式でいけるかというと、DTPは無理。言うなればシステム開発も無理。
DTPにいたっては、「これ追加」「これ変更」は当たり前であって、それがあるからこそ、DTPの仕事があるわけで、それに対応しません、ということであれば、職自体必要ない。だって、それはただコンバートしただけだもんね。

「無いもの(見えないもの)」を作り出すということは、その目指す先の「有」は、だれも見たことがない。だれもそれが完璧だという姿をなんとなく想像はしていても固定的に限定的に指し示すことはできない。なんとなく自分の想像に近いところで、OKを出すしかない。

だから、DTPもシステム開発もクリエイティブな世界なんだと思うのです。

だからこそ、作り手は、お客さんの想像から、創造しなければいけない。
常にプロフェッショナルな立場からそれを作り出すという関係で成り立つものだと思うのです。
だから、色んな便利なツールとか沢山あって、誰にでもできるんかというと、そうではなく、やっぱりそれが成り立つには相当な努力をした人たち、それが好きな人たちだけが生き残っていく世界なんじゃないかと。

話逸れますが、先日美容院の年下の店長が言うとりました。
たまたま美容院関係を目指す人向けのフリーペーパーがあって、その話題の中ですが、
「美容師ってさ、結構目指してる人多いよね?専門学校とかもあって」
「いっぱいいますけど、結局なれるのはホント一部だけで、みんな対外辞めていきますね。」
「ネイルとかはやってるっぽいじゃん」
「誰でもできるようになっちゃって、どんどん値が下がっちゃって、今やっていけなくなってるみたいですよ。僕らは値段は下げないんですよ。そもそも誰でもができるものではないんですから。」

これを聞いて、ああこいつもクリエイティブな世界のプロなんだなと。そして厳しい修行に耐えて今があるんだよなと思ったわけです。

んでんで。。。話戻します。

僕らの世界に戻すと、どちらかというと完成したものにクリエイティブさを求めるのではなく、その作る過程において求められるものとなります。
だって、DTPでいけば完成したものはレイアウトされたページだし、システムでいっても、使う側からすれば、別に中身のソースコードが綺麗かどうかなんてのは関係ない。

ただ問題は、どう作られたかが重要で、ちゃんと出来ていなければいけない。
DTPで言えば、間違いがない(印刷トラブルになるような要素も含む)かどうか、
システムで言えば、ちゃんと動くかどうか、
両方ともお粗末なミスを含んでいるようではプロとは言えない。

それには、作り方が非常に重要ということで、DTPにもその品質を担保する「テスト」という概念への取り組みが必要だと思うのです。

そのテストは、
・最初の要件では、前述通り決められないので、随時変わっていくもの、足されていくものというのが前提
・プログラム的チェックが可能か、目検が必要かを振り分けをする
・テストが通るように作る
・テストして、それが通ってから初校、再校ごとに納品する
というようなことを考えています。

印刷のためのプリフライトチェックとかありますが、それも含まれます。
しかし、その内容まではチェックされません。
データなんですから、今後は、もっと内容まで掘り下がったチェック(文字、文言とか、画像、著作権とかもあるかも)が必要とされると思います。

それから、もう一つ、なんで必要かという理由になるものは、電子書籍やコンテンツの再利用など、今後「データ」としての扱いが重要になってくるということです。

なので、印刷は、その出力方式の一部でしかなく、当然その品質を保つことも重要ですが、今までのように「印刷ありき」という考え方から、徐々にシフトできるところから「データありき」という認識に変わっていくと思われます。

僕らは印刷にするところが得意だというアプローチから、その制作の仕事をいただいているわけですが、ただ出来るというわけでなく、プロフェッショナルに展開できないと意味がない、ということだと思うのです。

2010年1月4日月曜日

2010年 明けましておめでとうございます

ひとまず年末ジャンボもかすっただけで終わりましたので、ちゃんと仕事しないとダメだなと、気持ちを引き締めて今年も頑張ろうと思います。

僕が景況なんぞ語ってもしょうがないので、印刷とか出版に関係するあたり、しかも自分のところに関係するあたりで、考えてみたいと思います。

まず、個人が印税35%の電子書籍を出版できる時代 - Amazon Kindleの衝撃とか、
大晦日特番「誰が電子書籍を読むのか」の閲覧メモにあるように、今までのスタイルを貫くか、見切りをつけて新しい方向へ舵をとるかは、版元さんや著者の方々の考え方によりますが、出版の流れは大きく変わっていくのはもう間違いないことなので、それを見据えて備える年になりそうです。

電子書籍やリーダーなんて必要ない、なんていう時代はとうに過ぎていて、ユーザー(読者)が、欲しい本またはコンテンツを手に入れたい「モノ」「手段」として欠かせないものになる、ということは必至であり、必然的に電子データの重要性が高まる。

コンテンツの様々な用途を目的とした作り方もさることながら、データを「保管する」という点においても、不明瞭な点は今でも多く、それがGoogleさんたちの目論見に一網打尽にされてしまう可能性を持たせてしまっていると思います。

コンテンツデータをいつでも使える状態、使いたいときに使える状態というにしておくことが必要で、そのためには、
・データはどこにあるのか?
・データの持ち主って誰なのか?
・そのデータはどんな(何で作られた)データなのか?
・そのデータはいつからいつの期間で有効なのか?
などなど

…ああ、これ濃くなるので「DTPデータの保管について」という別記事にしよう。

この辺りをちゃんと整理する必要があると思います。

今まで頑張って作っても「印刷」という工程を超えて、何年もたてば行き場を失ってゴミ同然の扱いになってしまっていたDTPデータも、その内容(コンテンツ)とともに、その作り方、保管の仕方に至るまで、それがいかに重要であるか、そういう認識が高まって欲しいものです。

昨日から新しい大河ドラマの龍馬伝が始まりましたが、印刷や出版に大きく影響を与えるGoogle、Amazon、Adobe、Appleなど、押し寄せてくるのは全部海外の企業やサービス。日本の今までの歴史、慣習にも当然良いところはあるのですが、この波は抑えようがないのではないかと真剣に思う年始であります。

では皆さま、今年もよろしくお願いいたします。